何事も両極端の間に答えがあるのかも

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こんにちは!

yolkです。

今日は、

PIXAR <ピクサー> 世界一のアニメーション企業の今まで語られなかったお金の話 ローレンス・レビー 著

を読んだのでメモ。

この本は、ローレンス・レビー氏がスティーブ・ジョブズ氏へ勧誘を受けてPIXARへ入社し、数々の困難を乗り越え、PIXARを一流企業へ成長するまでの軌跡を記載してあります。

この本は財務を担当した ローレンス・レビー氏 視点のものですが、その中でもスティーブ・ジョブズ氏との関わりも描かれています。

スティーブ・ジョブズ氏のことはインターネット上で多少知っていることはあったのですが、彼ほどの人でも経営初期は交渉で悪手をうったりしていることがわかります。また、彼がPIXARへ関わる初期と後期では、自分主義から少し他人へ任せる主義へ変わっていることも興味深く感じました。うまくいったから人がかわるのか、人がかわるからうまくいくのかはわかりませんが、人に任せるという判断をできることは大切な気がします。

また、PIXARという会社も最初はうまくいっていないということがわかります。

ローレンス・レビー氏 は後半、中庸という概念を取り上げています。

wikipediaより

「中庸」の『中』とは、偏らない、しかし、決して大小や上下の中間を取りさえすればよいという意味ではない。よく、「中途半端」や「50対50の真ん中」と混同されている。中間、平均値、足して2で割るというものではない。常に、その時々の物事を判断する上でどちらにも偏らず、かつ通常の感覚でも理解できるものである。

『庸』については、朱子は「庸、平常也」として、『庸』を「平常」と解釈しており、鄭玄は「・・・庸猶常也言徳常行也言常謹也」として『庸』を「常」と解釈している。『庸』が「常」という意味を含んでいることは二人とも指摘している。現在、多くの学者たちは、『庸』が「優れた点や変わった点を持たない」(用例:庸才)と「平常」(用例:庸民)との両方の意味を含んでいると見ているほか、『庸』は「用」であるという説もある[2]。つまり、中の道を「用いる」という意味だというのである。

中庸の徳を常に発揮することは聖人でも難しい半面、学問をした人間にしか発揮できないものではなく、誰にでも発揮することの出来るものでもある。恒常的にいつも発揮することが、難しいことから、中庸は儒教の倫理学的な側面における行為の基準をなす最高概念であるとされる。

PIXARは技術では最高の会社であったがうまくいっていなかった、そこには財務面などの問題があり、そこの技術と財務の両方のバランスが取れる会社になったからうまくいったということかな、解釈しています。

何かしらうまくいっていないときは、自分でも考えや行動が極端になっていないのかを考え、最適なバランスへシフトすることが大切なのかな、と思いました。

それでは!

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